わたしの3.11〜都内から千葉県内へ徒歩帰宅の記録

わたしの3.11〜都内から千葉県内へ徒歩帰宅の記録

こんにちは!ちは(@ch_enl)です。

もうすぐ3月11日。今年で東日本大震災から7年目です。

今振り返ると、震災前と震災後で日本は全く変わってしまったと思います。

日本全体がパニックに陥ったあの日、わたしは都内のオフィスビルの12階で仕事をしていました。

震災発生から徒歩帰宅するまでのことを、思い出しながら書いていきます。

3.11

3月11日、地震発生前

2011年3月11日は金曜日。

わたしはいつもと変わらず出社して働いていました。

いつもと違ったことといえば、昼休みにドコモショップに行ったことぐらい。

携帯電話(当時はガラケー)に充電可能なソーラーパネルがドコモショップに売っているという情報を知り、それは是非欲しいと思って昼休みにドコモショップまで買いに行きました。

ドコモ ソーラー充電パネル

ドコモショップで買ってきたソーラー充電パネルの充電能力を試すために外のベンチで昼食を食べて、「おおー結構実用的なレベルで充電出来るなー」などと思っていました。

14時46分、地震発生

昼休みが終わり、午後の仕事を自席でこなしていた14時46分ごろ、突然建物全体が揺れ始めます。

今まで体験してきた地震とは明らかに異質な強すぎる揺れが何分も続きます。

当時わたしが働いていたのは東京都北区田端にあるオフィスビルの12階。

12階だと地上から高さがあるため、ユッサユッサと揺れます。

オフィスデスクのサイドワゴン(下の写真みたいなやつ)はキャスター付きのため、キャスターをロックしていないものはゴロゴロと机の下から転がり出てきます。

また、プリンターや通信機器などを載せているラックも未固定のものは揺れに合わせて大きく移動しています。

わたしは怖くて真っ先に机の下に潜り込んだのですが、気の利く人がオフィス中のドアを開けて回っていました。地震でドア枠が歪んで外に出られなくなるのを防ぐためです。

わたしはそこまでの機転がきかず、ただひたすら机の下でガラケーでTwitterしながら揺れが収まるのを待つしかありませんでした。

ただ、結果的に机の下に潜り続けていて正解だったことが後から分かります。

自席の真後ろに立っていたパーティションの部品が地震の揺れで外れて、いつ落ちてきてもおかしくない状態だったのです。机の下に潜っていなかったら、パーティションの部品(金属製のバー)が上から落ちてきて頭に直撃していた可能性もありました。

ちなみに、地震発生直後の自分のツイート第一声は

 

わたくし
これはやばい

 
でした。

揺れが収まったあと対応に追われる社内

さて、強い揺れが5分以上つづいたでしょうか。

ようやく揺れが収まってくると、上司の一人がテレビを付けました。当時の職場にはテレビがあり、災害時などには情報収集のためテレビを付けっぱなしにする習慣がありました。

テレビの速報で震源地が東北、おそらく仙台方面であることが伝えられます。(わたしは机の下でTwitterしてたので既に震源地は知ってましたが)

揺れが収まったため、多くの社員がシステムの稼働状態確認に走りました。わたしは当時システム会社に勤務しており、東北地方にも展開しているシステムの運用を担当する部署にいたのです。

当然東北地方との通信は非常に不安定で、仙台方面に置かれているサーバーが生きているのか死んでいるのかすら分からない状態でした。

こうしている間にも余震と思われる揺れが東京でも感じられます。

テレビの特別番組では津波警報発報のニュースで沿岸部の人に避難を呼びかけています。

また、お台場方面で起きていた大きな火災の様子も、田端から黒煙がよく見えていました。

地震発生から2時間ほど経った17時頃、上長の判断で一部社員を残して帰れる人は全員帰宅するように指示がが出ました。

わたしもサーバーや通信機器の死活確認をしていたのですが、帰宅指示が出たため残る社員に引き継いで帰ることになりました。

 


 

帰宅指示が出るも電車は動いていない

仲のいい女性社員がかなり怖がっていたので彼女と一緒に会社を出ます。

エレベーターはもちろん使えないため、非常階段を12階から1階まで降りたのですが、壁の建材が剥がれ落ちているなどして危険な状態です。

仲のいい女の子とは会社の前で別れて、それぞれの帰路につきました。

とは言ってももちろん都内の電車は壊滅状態、まったく動いていません。

当時の職場最寄りは田端駅、当時の住まいの最寄りは松戸駅。

田端駅から松戸駅までどうにかして移動しなければなりません。

田端から松戸まで歩いて帰るとなると16kmあります。

16kmの道程をすべて歩くというのは現実的ではないため、ひとまず田端駅前からバスに乗って北千住駅を目指すことにしました。

田端駅前のバス停には既に長蛇の列が出来ており、バスを待っている間にも地面がユラユラと揺れています。

寒さに震えながら30分ほどバスを待ち続け、ようやく到着した北千住行きのバスに、なんとか身体ををねじ込んで乗り込みます。

ゆっくり走るバスの車窓からは、歩いて帰ることに決めたらしい同僚たちの歩く姿が見えたりしました。

バスで田端駅から北千住駅まで移動

さて、ゆっくり運転のバスがようやく北千住駅に到着しました。

北千住駅から松戸駅方面にバスがないかどうか調べたかったのですが、当時はガラケーしか持っていなかったため、たまたまパソコンの前にいた友達に検索を依頼しました。

地震の影響がなかった九州方面の友達に依頼したのですが、こちらのことを本当に心配してくれて、この後も色々な情報を調べてはTwitter経由で教えてくれて助かりました。

さて、その友達の調査により、北千住駅から松戸駅方面に行くバスは無いことが分かりました。

北千住駅を通る電車は当然すべて全滅状態。駅構内に人を入れても混乱を招くだけだと判断したのか、シャッターを閉めている入り口までありました。

もちろんタクシーなど全て出払っていて、列に並んだところでいったいいつ乗れるかわかりません。

この状態で帰宅するにはおそらく徒歩が最良の手段だろうと判断し、歩く決断をしました。

意地でもその日のうちに帰りたかった理由

そこまでしてどうしても家に帰りたかったのには理由があります。

実は翌日に大阪旅行を控えていたのです。

大阪行きのチケット(と言っても青春18きっぷですが)も、大阪で観る予定のライブのチケットも全て自宅にあったのです。

これは何としても金曜日のうちに自宅に帰らなければなりません。

もし土日に旅行に行く予定がなければ、おとなしく暖かい会社にとどまっていた可能性が高いです。

 

 

徒歩帰宅の装備は万端、いざ歩き出さん

さて、北千住から松戸まで歩いて帰ることを決めたわたしですが、実は徒歩帰宅用の準備はしっかりできていました。

2005年7月に起こった千葉県北西部地震(最大震度5強)で全ての電車が止まるのを目の当たりにしたのをきっかけに、会社のロッカールームに

・地図
・スニーカー
・厚手の靴下
・使い捨てカイロ
・カロリーメイト
・軍手

が入ったウエストポーチを入れておいたのです。

また、2005年7月の震災以降に行われた自治体主催の徒歩帰宅訓練にも参加するなどして、いざという時のために備えていました。

さて、北千住駅前で徒歩帰宅用のウエストポーチから地図を取り出して、松戸に向かって歩き始めます。

ガラケーで地図を見るという方法もありましたが、震災発生直後には繋がっていたインターネットもこの時間帯には繋がりにくくなっていました。

おそらく、多くの人が帰宅する時間帯になってネットで情報を見ようとして重くなっていたのだと思います。

また、携帯の予備バッテリーをこの日は持ち歩いていなかったため、ガラケーの電池が切れたらすべての通信手段が途絶えてしまうのでバッテリーを節約しなければなりません。

そのため、ガラケーで見るのはTwitterのタイムラインだけにして、検索したい事柄が出てきたらパソコンの前にいる非被災地のフォロワーさんにお願いするようにして歩き始めました。

18:30ぐらいのことです。

徒歩帰宅開始、そして尿意との戦い

この日は3月だというのに非常に寒かったです。歩き始めれば身体は暖まるだろうと思っていたのですが、全然暖まりません。

流しのタクシーを見かけたら乗りたかったのですが、タクシー自体全く走っていません。

よく見かけたのは赤色灯を回してサイレンを鳴らしながら走っている東京ガスの車でした。おそらくガス漏れが多発していて対応のために走り回っていたのでしょう。

さて歩き始めて1時間も経つとおもむろに尿意を感じてきます。そこで早速自分の現在地をTwitterに投げて、非被災地の友達にトイレ検索を依頼します。

北海道の友達から、自分が進む先のトイレ情報を送ってもらうことが出来ました。

最初にトイレを借りたのは、道沿いにあったファミリーマートでした。

19:15ごろのことです。

トイレに長蛇の列ができていましたが、並んで用を足します。この時トイレを貸してくれた恩は一生忘れないことでしょう。

タクシーもレンタカーも無いけど、もしかして自転車ならあるのでは?

トイレを済ませて更に歩き続けます。

途中幹線道路沿いにあったレンタカー屋に立ち寄り「空いている車はないか」と聞いてみたものの当然ありませんでした。

トイレの後1時間ほど歩いたところでわたしにある後悔の念が湧いてきます。それは、「会社の近くの自転車屋で自転車を買えばよかった」というものです。

「そうか!自転車!」

とひらめいたわたしは、幹線道路から一旦外れて一番近いショッピングモールを目指し始めました。

自転車購入

タクシーもレンタカーもダメでしたが、ショッピングモールの自転車売り場には幸いにも自転車がまだ残っていました。

自転車を購入して防犯登録を済ませ、幹線道路に戻って漕ぎ始めます。

歩道は徒歩帰宅の歩行者であふれかえっているため車道を無我夢中で進み、最終的には21時過ぎに松戸の自宅に到着することができました。

 

 

自宅の被害状況確認

帰宅して自分の部屋の状況を確認すると様々な異変がありました。

まず、テレビが倒れていました。

前のめりに倒れていたら壊れていた可能性がありますが、幸い後ろ向きに倒れて壁に当たって止まっていたので故障は免れました。

また、トイレの床が水浸しになっていました。

これは今でも理由がよくわからないのですが、おそらく地震で便器がずれて水が漏れた?のではないかと思います。

その後のトイレの使用には全く支障がありませんでした。

入浴そして就寝

帰宅後は、散々歩いた+チャリをこいだ疲れをお風呂で癒しました。

震災直後は繋がらなかったドコモのメールも繋がるようになり、親の安否を確認することもできました。

テレビでは津波の被害や原発がヤバいかもしれないという情報がしきりに報道されていました。

この日は歩き疲れていてので風呂から上がってすぐ就寝しました。

まとめ

会社に置いておいた徒歩帰宅用品の中で最も役に立ったのはスニーカーと厚手の靴下でした。

この2つがなかったら徒歩帰宅は無理だったと言えるでしょう。

後日談

余談ですが、震災の翌日大阪でのライブに行くため夜明け前から昨日買った自転車を30㎞ほど漕いで東京駅まで行き、新幹線と近鉄特急を乗り継いで大阪に着いたもののライブが震災の影響で中止になる、というアクシデントに見舞われました。

仕方ないので、鈍行列車でゆっくり東京方面に戻りつつ、

・京都のビックカメラで電池式のランタンを購入
・名古屋のハンズで防災用品やエネループを購入
・その他乗換駅のコンビニでレトルト食品を購入

などしながら帰りました。

この頃には既に東京近郊の小売店では防災用品や食品の品切れが相次いでいるという情報が入っていたためです。

この後月曜は会社が休みになりましたが、火曜から出社してシステムの復旧対応に追われることになりました。

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